角川映画、KADOKAWAアニメが低評価な理由は何故?「大衆文学と未来のメディア」

角川映画、KADOKAWAアニメが低評価な理由は何故?「大衆文学と未来のメディア」

コンテンツの大衆化で得たもの失ったもの

 ありとあらゆるコンテンツは基本的に大衆化すればするほど味気ないものになっていきます。逆にニッチ化すればするほど、その作品は受け手がいなくなる、つまりは商業作品として通用しなくなるという構造を持っています。事実上、一般大衆向けとされている作品の中でも、規模的にどの程度多くの一般大衆へ、潜在的にリーチ出来る作品にするかという、前提の話があり、その基準をどこに置くのかという話で、作者と出版社側での衝突などもあったりします。

 勿論、文学や、あらゆる娯楽と呼ばれるコンテンツの多くが、読者を予め想定して書かれている事がほとんどであり、そう言った構造的欠陥を負ったストーリーが存在し得る事自体が、作者の怠慢だと指摘する意見もあるかもしれませんが、これはメディアミックスなどの場合には同じことが言えない場合があります。それは、メディアミックスなどが起こる際の多くの場合、仮に小説をアニメ化した場合などだと、原作者がアニメ用の脚本を書いていないことがほとんどだからです。これは脚本家やその脚本家を選ぶ、監督の手腕によるところが多いものであり、その選択如何によって、容易に設定していた読者層が外れる、または不用意に大衆化されすぎて、ボケすぎた味気のない作品という事になってしまうこともあるのです。

面白い作品が見たい

面白い作品に共通する毒気

 大概の面白いと言われる創作コンテンツの多くが、どこかに毒気を含んでいたり、一部のマニアックな要素を含んでいたりしています。これは前述しているコンテンツの大衆化の行き過ぎによって、味気なくなってしまうということにも共通するのですが、本当に極端に一般大衆化が進んでしまうと、この毒気が圧倒的に抜けてしまい、まるで教訓めいた話や、露骨なお涙頂戴物語になってしまうということもあります。特に、原作者の意図を履き違えて、はたまた原作者の意図がわかってはいるけれど、倫理的にやりたくないと監督や、メディアミックス側の人間が判断した、はたまた、そこが重要だというところが全然わかっていないなどということがありますと、いわゆる原作レイプと呼ばれるひどい有様の作品改変が行われるということもあります。角川映画の中にはこういった毒気が全く抜けてしまっているものや、はたまた監督事態が作品の読者層を理解していないなどという商業主義に傾倒しすぎたが故に陥りやすい過ちが、如実に出てきてしまっているものもかなり多くあるのです。

角川といえば

映画などの場合は大衆化のリスクが増える

 また、これらのリスクは映画化といったキャストが必要になる場合ですと更に増えることとなります。作品を映画化する上でもっとも一般大衆化出来る手法が、有名な俳優を使う、はたまた、有名なアイドルを起用するということだと思います。これは前者の場合だと、よほどバカな配役をしない限りは、俳優の力量によって上手いこと潰すことも出来ますが、後者の場合は演技の拙さ故に、配役のミスマッチをカバーしきれないという意味合いに取られかねませんが、厳密にはそこが問題なのではありません。勿論、配役の良さや役者の力量よりも、役者の有名度、人気度によってそう言ったキャスティングが行われること事態も問題と言えば問題なのですが、それ以上に、アイドルを起用するといった場合だと、必ずと行っていい程、脚本にプロデューサーなどからのケチがつくという問題が発生します。例えば、うちのアイドルにはこんなモノは演じさせられないだったり、うちのアイドルの出番をもっと増やせだと、物語をこのように改変すれば、もっと出番が増やせるし、良くなるなどのアドバイスのことです。この良くなるというのは殆どの場合、その配役によって、その役を演じる者にとって良くなるということであって、出演者の多くがこのような物言いを好き勝手やり始めたら、ほとんどの場合物語は破綻します。場合によってはスポンサーたる企業がこの物言いを過剰に行い、作品自体が本当にダメになってしまうということも、多々あります。特にプロダクトプレイスメントと呼ばれる手法についてはアメリカの脚本家組合から抗議などが古くから引き起こっているのですが、このプロダクト・プレイスメントとは、TVドラマの人物や映画のキャラクターはたまた映像内で、例えば香水だったり、車だったり、食品だったりといった何らかの商品に対して言及し、広告するという手法で、特に最近ですと普通の広告などがスキップされてしまったり、それをスキップする技術などがプレイヤーなどの仕込まれている為、広告代を払ったのに広告にならないといった問題もあることから、かなり露骨にやっているというところもあったりします。例えば、「主人公や脇役の人物かだれかを映画に行かせて特定の映画のタイトルを上げて素晴らしいと言わせる事」だったり、ある人物に特定の食事を食べさせ、露骨にパッケージを何度も映したり、はたまたベットシーンで唐突に香水について言及し始めたりと言った具合になっています。特に、これらは、突然、はたまた直前になってから通告されることも少なくなく、その広告を実現するために無理やりストーリーを弄ったり、不自然な形に捻じ曲げたりといったことまでが必要になるといった問題も抱えているのです。特に日本の映画などではプロダクトプレイスメントはそこまで多くないものの、タレントやアイドルを出演させた際などの事務所からのあれこれによって、苦しむ脚本家もいるという話をよく聞きます。これらは、そのタレントの人気を用いて、多くのお客さんにリーチしたいという大衆化を目指して行われた施策ではあるのですが、それで作品がダメに成ってしまうのであれば、それで得たものと失ったものは果たしてどちらがどれだけ大きいと言えるのでしょうか? 非常に気になるところです。